虫麻呂は珠名に好意的でない。それは反歌ではっきりと表れている。

 
金門にし 人の来立てば 夜中にも 身はたな知らず 出でてそ会ひける
 家の門に人が来れば夜中でも会った。誰にでも会い、誰にでも身を任せる
ふしだらな女で、多くの男を手玉にとった女であると詠んでいる。ところが、
自分の用事をも忘れてフラフラと誘惑される男たちのだらしなさには、一言
の叱責もない。片手落ちではないか。


 珠名の身分をどうするか二つの説がある。
 一つは都から下向する高官を接待する
うかれめとする説。『万葉集』巻6、
965、966の二首は、大宰府師であった大伴旅人が大納言の職を得て京
へ上る時、児島という遊行女婦(うかれめ)が涙ながらに詠んだと詞書にあ
る。遊行女婦は容姿がすぐれているだけでなく、かなりの教養も必要だった
のではないか、と思う。珠名が
うかれめであるとすれば、旅人を接待するの
が彼女の役目である。
身はたな知らず、と非難されるのはおかしい。
 もう一つは
巫女説である。珠名のタマとは霊魂を表す古義がある。だから、
珠名という名は須恵国造の流れをくみ、須恵の神を祀るおとめ(巫女)の通
称ではなかったか。このおとめは代々珠名と称し、いつの時代かの珠名が大
変な美人で、しばしば浮名を立てたのだろう。それが伝説化して語り継がれ
たのではないだろうか。

 虫麻呂は、
 金門にし 人の来立てば 夜中にも 身はたな知らず 出でてそ会ひける
と詠んだ。身はたな知らず。たなの意味を調べると(十分に、一面に)とあ
る。身分のほどを十分にわきまえるのが、身をたなしることであり、
たな知
らずの珠名は身の程知らずということになる。

 神に仕える巫女ならば男を遠ざけねばならない。身はたな知らず、という
強い口調は、珠名が神に仕える巫女でありながら・・・という虫麻呂の批判
と受け取れば、
巫女説が妥当と思われる。
 内裏塚古墳は内房で一番大きな前方後円墳であり、須恵国造の墓ともいわ
れている。その主はまだはっきりしない。けれど、珠名の碑が立てられたこ
とは、そのあたりが相模の国から走水の海の難所を渡って上陸した港に近い
所であり、古くから開けたところと考えられるからであろう。
 官道は古津(ふるつ:富津)から湯坐(ゆえ)を通り海沿いに木更津を抜
け、市原の国府へ通じていた。珠名を詠んだ虫麻呂はこの道を更に市川の国
府へと行き、常陸の国府まで歩いたのだろう。しかし、天平勝宝7年(755)
に筑紫に派遣された防人、物部竜は、市原の国府に集まり陸路大阪まで歩い
て行ったようだ。ということは、陸路が整備されて、相模から海を渡るコー
スはだんだん廃れていったものと思われる。それに伴って珠名伝説は旅人に
伝え広がることもなかったのだろう。
 それに反して「真間の手児奈」は、下総の国府近くの話であり、ますます
交通の要衝の地として栄えたであろうから、沢山の旅人の耳にも入ったこと
だろう。珠名の歌はたった1首であるのに比べ、手児奈を詠んだ歌は長短併
せて9首もある。高橋虫麻呂だけでなく、山部赤人も詠んでいたり、東歌に
も4首、大変な人だったようだ。
 市川市は手児奈霊堂を建てて、手児奈を祀ってある。境内には、関連する
万葉集の歌と詳しい説明を書いた案内板も立っている。真間の継橋、真間の
井、昔の面影を偲ぶのには無理があるが、文化財保存の姿勢がうかがえた。

 真間の手児奈は、
身をたな知りて、男たちを遠ざけて入水した純粋な娘。
 須恵の珠名は、
身はたな知らずに、男たちと戯れいた、みだらな娘。と、
対照的に描かれている。そして、片やお参りの人が絶えず明るく広々とした
地に祀られ、片や山の中にひっそりと訪れる人もなく、碑の存在さえ知られ
ていない。けれど、2人ともわが房総の伝説上の美女である。珠名は道徳上
好ましくはないが、もっと地元の人々に知って欲しいと思う。

        
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解説2