松本新吉編へ

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  『すゑ風土記』のテーマに、この地方に足跡を残した人物の一人と
 して、柳敬助の名前がありました。私が柳敬助という洋画家の存在を
 知ったのはこれが初めてでした。こんな片田舎(小糸泉)の御仁だか
 ら大した人物ではないだろうと「たか」を括っていました。ところが
 調べていくうちに驚くなかれ、彼は明治の日本洋画檀の一翼を担った
 夭折の画家だったのです。  

  私と画伯の作品との最初の出会いは久留里城址資料館です。矢野、
 布施学芸員のご好意で、以前ここで開催された「柳敬助特別展」の資
 料を拝見させていただきました。スケッチブック(写し)や書簡など
 があり、その中に「柳敬助集・碌山美術館発刊」がありました。

  この本には柳敬助の油彩画が図版として紹介されていました。紫紺
 を基調とした絵を見たとき、幼い頃通った教会の香りが何故かしら漂
 ってきました。数十年の時空を経て、またぞろ異文化との思い出の出
 会がそこにあったのです。画伯の経歴を紐解くうち、この理由が明ら
 かになり、愕然とするとともに、文明開化間もないこの片田舎から油
 絵を勉強するため渡米し、技術を磨こうとする若者の意思と崇高な意
 志に大変な感動を覚えました。私の脳裏にあった謎。それは、はじめ
 て見た外国人への憧れと畏敬の念であったのでしょうか。そして、画
 伯のことをもっと知りたい。生の作品にも接したい。人物像にも迫っ
 てみたい。という欲望に駆られ、資料収集の行脚がはじまりました。

  柳敬助夫人(八重)は日本女子大学一期生で、週刊誌家庭週報
 や雑誌「家庭」の編集、「読売新聞婦人欄」の担当、雑誌「女性日本
 人」や「日本家庭大百科事彙」の編集にも携わり、木島則夫モーニン
 グショーにも出演した明治を代表する賢婦人です。平成8年(1996)
 日本女子大学成瀬記念館で桜楓会主催「柳敬助・八重夫婦展」が開催
 されていることがわかり、一部入手する事が出来ました。この資料に
 は、ご子息柳文治郎氏の投稿文「新井奥邃と碌山・敬助・光太郎につ
 いて」や図版、貴重な資料が収録されています。特に参考になったの
 は、写真入の「略歴」です。この中の一部を敬助年表で使用させてい
 ただきました。

  ご縁があり、糠田の観音堂・野口薫師(故人)と知り合いになりま
 した。師のお住まいは敬助の生家近くだったそうです。敬助との面識
 はないとのことでしたが、渡辺由太郎氏からは敬助が絵に取り組む姿
 勢。花澤荘作氏については幼い頃の思い出話として。それぞれ師が語
 ったことを両氏の肖像画のなかに記述しています。

  『碌山美術館で生の絵を見たい』。この願いがひょんなことから実
 現しました。あずさ号に乗り、いざ松本へ!。『芸術の秋、至福の時
 まさに、ここに至れり』。紅葉と冠雪に目はうつろ、身はそぞろ。は
 やる気持ちを押さえ、念願の「碌山美術館」に到着しました。一心不
 乱に展示棟を探しました。

  焦る気持ちを抑え第三展示場へ。入口を入ったすぐ左の壁に、ぎょ
 ろりと鋭く、そして温和な瞳が目に飛び込んできました。

     
 オイ、よくきたな。待っていたぞ!

 と、いわんばかりのやさしい口調で語りかけられたような。そんな錯
 覚にとらわれました。私にとって荘厳で劇的な出会いでした。この余
 韻はいまだ覚めず、網膜の奥に焼きついています。終生忘れることが
 できない宝物であり、感動でもありました。私には一瞬、敬助が『故
 郷に帰りたい』と、ポツンと呟いたようにも見えました。ついこの前
 まで、故郷の地に安住したい。そう言っているのだ。と信じ込んでい
 ました。しかし、それは私の大きな勘違いでした。先日、開催された
 地元の作品展が全てを物語ってくれました。多分、敬助が私に訴えた
 かったのは「里帰りして両親や兄弟に会いたい」という希望を伝えた
 かったのだと受け止めることにしました。一度、この図版の肖像画を
 持って小糸泉にある「山田家」の墓参に行ってきたいと思います。

  長野の碌山美術館には、友人達の数々の作品があります。旧懐を温
 めあい、酒盃を酌み交わし、芸術論を戦わせるのに格好の場です。ま
 た、「柳敬助生誕100周年追悼記念特別展示会」も開催されたと聞
 きます。あらためて、丁重に扱う碌山美術館に君津の一市民として感
 謝するとともに、敬助を尊敬するフアンとして碌山美術館での敬助と
 の出会い、感動を大切にし、語り継いでいきたい。

                        文責(M・M生)

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柳敬助の足跡を追う(雑感)